対馬の世界最大級の砲台とは?
「豊砲台」
第一次世界大戦の後、激しい財政負担に苦しんでいた英米日などの主要国は、世界軍縮会議の結果、ワシントン海軍軍縮条約を締結し、旧式戦艦と未完成艦の廃盤を決定しました。
その結果、余剰となった艦砲は東京、対馬、壱岐、鎮海などの重要海域の要塞砲として用いられることになります。
豊(トヨ)砲台には日本海・対馬海峡・朝鮮海峡の制海権を確実なものにするため、同条約により航空母艦に改造されることになった「赤城」の40.6cm可農(カノン)砲一基2門が移設されたと言われています。(長門、土佐という説もある)
※のちの戦艦大和に搭載された主砲は18インチ=46cm。
当時は世界最大級の巨砲。一体どれほどの迫力だったのでしょうか。。。
昭和4年(1929年)5月に起工。昭和9年(1934年)3月に付帯設備を含む、すべての工事が完了。
豊地区に砲身長は18.5m、砲身重量108トン、実用射程距離は30.3kmという、世界最大級の巨砲が登場しました。
すぐ近くに小さなトンネルが今もありますが、完成はこちらも「昭和9年3月」。
当時、豊砲台で任務についていた方々、そしてその働きを支えておられた人々にとって重要なトンネルだったかもしれません。
第二次世界大戦終結の後、昭和20年10月、米軍の爆破班により、武装解除されますが、鉄筋コンクリートの厚みは2m(砲塔部は3m)にもおよんでおり、完全に解体できず、当時の姿を今に留めています。
実際、豊砲台は実戦では一度も発射されることはありませんでした。
しかし、第二次世界大戦時に日本海側の都市で艦砲射撃の被害が無かったことは、対馬要塞が抑止力としての役割を果たしていたことの証拠と言えます。
砲台跡には通路が何本かあり、迷路のように感じます。
兵舎や台座、工作室など。部屋がいくつもあり、当時の面影を見ることができます。
後に砲身は解体され、北九州市の八幡製鉄所で溶かされて、戦後復興の資材になったと言われているそうです。
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